クープ・デュ・モンド 2017出場
2017年1月22〜23日、フランス・リヨンで行われた洋菓子の国際大会「クープ・デュ・モンド・ドゥ・ラ・パティスリー2017」にクラブハリエ代表取締役社長/統括グランシェフの山本隆夫が出場しました。
各国の予選を勝ち抜いたパティシエたちがその腕を競う世界最高峰の場として知られるこの大会。山本は氷彫刻・アントルメグラッセ(アイスケーキ)担当として、シュゼット・ホールディングスの駒居崇宏シェフ、森永商事の植﨑義明シェフとともに、企業の枠を超え、日本代表“チームジャパン”として頂点を目指しました。
今回チームキャプテンとして世界に挑んだ山本。和菓子舗「たねや」の次男に生まれ、現在、たねやグループの洋菓子部門「クラブハリエ」グランシェフとして経営を担っています。これまでには様々な紆余曲折、試練がありました。クラブハリエの歴史、そして山本のストーリーをご紹介します。
Episode.01 和菓子屋の次男に生まれ… “お荷物”からの脱却

和菓子舗「たねや」の次男として生まれる。身近にいつもお菓子がある生活の中で育ち、周囲から見れば将来を約束された環境であったものの、実は、高校、専門学校で専攻したデザインやグラフィックの道に進みたかったと言います。就職時にはバブルが弾け就職難の真っ只中。周囲のレベルの高さもあってデザインの道を断念し、気づけば実家の洋菓子部門クラブハリエに入社していました。
当時クラブハリエは赤字経営。商品の製造に関わりながらも、毎日お昼過ぎには仕事を終了。何かに真剣に取り組むことなく、会長の息子として自由奔放に日々を過ごす中、このままでは自分を見失ってしまうのではないかと一念発起。鎌倉の洋菓子店へ修行に出たことが、山本にとって大きな転機となりました。

地元滋賀とは違い、たくさんの洋菓子店が競合する関東のスピード感や技術、設備などは段違い。日々厳しい仕事をこなす中で、汗をかきながら懸命に働くことの楽しさも感じるようになりました。自ら課題を見つけ、乗り越えるために自分を追い込んでゆく。そんな洋菓子づくりこそ一生をかけた仕事であるとこのとき発見したのです。
修行を終えたあと、試みに洋菓子のコンテストに出場したこともありました。結果は惨敗。上位陣と同じ年代でありながら完成度の高さと技術の歴然とした差に、自分の実力を思い知らされます。まだまだ修行が足りないと練習に励んでいたある日、経理の担当者から「夜に練習をするのはやめてほしい」と言われます。「洋菓子部門は大赤字なのに光熱費がかかって迷惑。まず会社を黒字にしてからにしてくれ」。投げつけられた言葉が、生来の負けん気に火をつけました。
「いつかたねやを越えてみせる!」と、洋菓子部門の刷新に乗り出しました。商品開発をはじめ、外の風を取り込み、効率的に動きやすい環境づくり。また意識を高めるために様々なオーナーシェフを招いての講演会など、経営の改善に奮闘する日がつづきます。
Episode.02 クラブハリエのバームクーヘン。挑戦と成功。

山本が小さかった頃は工場が遊び場で、砂糖の種類や質感の違い、チョコレートの特徴などもその時には感覚的にとらえていました。常にお菓子に囲まれた暮らしのなかで、唯一毎日食べても飽きず特別な存在がバームクーヘン。焼きあげた丸太のようなバームクーヘンにかじりついたこともありました。
ドイツ伝来のお菓子を日本人の好みに合うように、ふんわりしっとりと、クラブハリエ独自の表現で開発を進め、商品名もバウムクーヘンから「バームクーヘン」に。確かな自信を持って作り上げたこのお菓子で、山本はクラブハリエの立て直しを図ります。 1997年、滋賀県内の草津近鉄にクラブハリエを初出店しました。山本はバームクーヘンで勝負したいと意気込みましたが、結果は失敗。お客様からは「バームなんて」と見向きもされず、新商品として出したモンブランに人気が集中し、悔しい思いをしました。このとき、バームクーヘンには結婚式の引き出物にあるような固くパサパサしたイメージを持たれていることがわかりました。

1999年には草津近鉄の状況をみた阪神百貨店から出店依頼が入ってきました。
当初「バームクーヘンのみを販売したい」と交渉しましたが、百貨店は大反対。社内でも賛成してくれたのは父親である会長と、ともに開発に携わった工場長だけ。会長の後押しもあってなんとか「一週間で結果が出なかったら品揃えを変える」という条件付きで出店しました。まさに一点突破の戦略は背水の陣。失敗は許されないと、展開方法に頭を悩ませます。そして迎えた出店初日。店舗には丸太のようなバームクーヘンをずらりと吊るし並べ、これまでとは違う味わいを知ってほしいと小さくカットしたものを試食としてお客様に配りました。

結果、目標額を超えて「よしっ!」と喜んだのも束の間、百貨店担当者からは「初日は売れて当たり前」との厳しい言葉。けれど日に日に売り上げを伸ばし、ついに百貨店が要望した条件を見事にクリア。その後は進物に使っていただくお客さまも増え、ここにきてようやく「クラブハリエのバームクーヘン」を認めてもらうことができたのです。
Episode.03 挑戦。コンクールで失敗し続ける日々から世界一へ

経営者としてバームクーヘンのヒットなどでクラブハリエの基盤を整えた山本は、一流の洋菓子職人と交流するうち、次第にコンクールへ再挑戦する意欲が湧いてきました。世界を知る職人にあこがれ、自らも職人として世界を視野に入れるようになったのです。
そして2004年、日本最大級の洋菓子コンクール「ジャパンケーキショー東京」チョコレート工芸菓子部門で優勝。しかし、他の実力者がミスで順位を落とした結果だと知り、“真の日本一”を目指して挑戦を続けますが、同じ大会で2007年には3位、2008年には2位となかなか頂点を極めることができませんでした。

自社の若手が力をつけ結果を残すようになってきたこともあり、頭をよぎったのは「自分はもうコンクールを引退し、経営に専念したほうがいいのかもしれない」という思い。しかし、「負けたまま終わりにしたくない」という生来の負けず嫌いな性格もあり、「これで最後」という思いで、ワールド・ペストリー・チーム・チャンピオンシップ(WPTC)2010日本代表選考会に挑みました。そしてついにチョコレート細工ピエス部門で優勝、日本一に輝いたのです。
日本一の次は、世界一へ。他部門で優勝した三宅善秋シェフ(当時ザ・リッツ・カールトン東京)、五十嵐宏シェフ(パティスリー ラ・ローズ・ジャポネ、当時マンダリン・オリエンタル東京)とともに世界大会への切符を得ました。
ここからの道程こそ本当の戦いの始まりでした。本来の業務をおろそかにすることはできないので、練習はいつも就業時間後、日付を超えるような時間まで夜通し続くこともありました。時間の都合をつけては3人で寝泊まりし、とにかく何でも話し合い結束を高めました。
2010年7月、アメリカ・アリゾナ州フェニックス。迎えた大会当日は用意されていた調理器具の故障やオーブンの不調など、予測していなかったトラブルが続くなか3人で助け合い競技を全う。見事WPTCにおいて日本勢初となる優勝を勝ち取ったのです。

「技術でもデザインでもない、最後は精神力だけの勝負だと痛感しました」。山本は担当のチョコレート細工において、直径30センチの球体に地球を描き、特にその美しさと繊細な技が大きな評価を得ました。 一度はあきらめかけた夢を、山本はその手で掴みとったのです。
Episode.04 次の世代へ受け継がれるクラブハリエの “世界レベル”

一企業のトップでありながら、自らがパティシエとして常に挑戦し続ける姿は、クラブハリエの多くの若い職人たちの目標であり続けています。
2010年、山本が3人1組のチームジャパンとして世界一に輝いた製菓の世界大会ワールド・ペストリー・チーム・チャンピオンシップ(WPTC)。2012年にはクラブハリエのシェフ妹尾徹也と小野林範の2人がチームジャパンとして出場し、見事日本チームが連覇を果たしました。

「身近にレベルアップしていく仲間たちがいるという環境が自然と人を育てているのではないかと思います。技術レベルが高く、プロとしての意識も高い人たちに囲まれて仕事をすることが当たり前。一般的に見て高レベルの仕事が普通だと思っているので、それを超えるための練習をする。これがクラブハリエ全体が高レベルである秘訣です」
言葉よりもなによりも、まず行動で示す山本。組織のリーダー自らが常に満足することなくさらに高いレベルを目指して努力する姿は、後に続く職人の大きな刺激となっています。

2015年にはWPTC2012で優勝した小野林が、各国のショコラティエが腕を競う世界選手権ワールドチョコレートマスターズで2位、同年のクープ・デュ・モンド前回大会では、クラブハリエの系列店「オクシタニル東京本店」の中山和大が日本代表として2位という結果を残しました。 それらの結果を超え、山本はクープ・デュ・モンドでの優勝、別大会別部門での“2度目の世界一”を勝ち取ることを誓っています。
Episode.05 もう一度世界へ。2度目の世界一を目指すわけ

2010年、WPTCで優勝を手にした山本。世界一の栄冠は本当に嬉しいものでしたが、その後、後進たちが各分野で次々と世界の舞台で結果を残すなか、山本のなかにある感情が芽生えてきました。
「数あるコンクールで“世界一”となったパティシエは世界中にいて自分はそのなかの一人にすぎない。別の世界大会で、しかも別の部門でも優勝することができたら、“2度の世界一”というおそらく今まで誰も達成したことのない偉業が成し遂げられるかもしれない」。
人と同じことでは満足しない、常に上を目指す山本らしい動機により、クープ・デュ・モンドへの挑戦が始まったのです。

氷彫刻・アントルメグラッセ(アイスケーキ)部門での初挑戦となったクープ・デュ・モンド2015日本予選。山本は2位でフランス本選への切符を逃しました。振り返ると、「一度世界一になったという慢心がどこかにあった」と言います。「このままでは終われない」という思いが山本を突き動かします。
2016年3月23、24日に東京で行われたクープ・デュ・モンド2017の日本予選では、国内トップレベルのパティシエによる厳しい戦いが繰り広げられました。アメ細工・アントルメショコラ(チョコレートケーキ)、チョコレート細工・アシエットデセール(皿盛りのデザート)、氷彫刻・アントルメグラッセ(アイスケーキ)の3つの部門の優勝者3名が日本代表チームとして、フランス・リヨンで行われる本選に出場することができます。

山本は「NATURE(自然界)」をテーマに、限られた時間で氷彫刻とアントルメグラッセを仕上げました。縦100cm、横50cm、厚さ25cmの氷塊にノコギリやノミなどの大小さまざまな刃物を使い分け、作品を削り出します。氷の破片が飛び散るなか、無機質だった氷の塊に“百獣の王ライオン”の命が吹き込まれてゆきました。
氷彫刻は、今まで山本が極めてきた洋菓子のテクニックとは全く別の技術を要するといいます。チョコレート細工が複数のパーツを組み合わせて華やかに作り上げる“足し算”の作業だとすると、氷彫刻は正反対の“引き算”の感覚が必要。直方体の氷から無駄な部分を削っていく作業に、失敗は許されません。
はじめに薄くキズをつけて大まかな下書きを描きますが、それ以降は下絵を見ることなく、すべて頭の中のイメージに沿って作業を進める山本。頭の中にはライオンの骨格から毛並み、表情に至るまで360度の姿が把握されています。この立体を把握する能力は、山本が幼い頃から熱中してきた地元滋賀県近江八幡市の伝統的な祭り「左義長(さぎちょう)祭り」が大きく影響しているといいます。毎年、その年の干支となる動物のオブジェを、本物に忠実に今にも動き出しそうなほどに生き生きを作り上げるのが習わしで、山本はそこで培った技術を氷彫刻に活かしています。

もう一つの課題であるアントルメグラッセ(アイスケーキ)は、見た目はもちろん味覚の部分で大きな評価を得る必要があります。山本は今まで磨いてきたケーキ作りの技術に加え、アイスクリームの本場イタリアなどで研究するなどして、一口でさまざまな味が複雑にからみあうアイスケーキを完成させました。
そしてついに、山本は氷彫刻・アントルメグラッセ部門で日本一に登りつめ、もう一度世界へ挑戦する“夢への切符”を手にしたのです。
Episode.06 絶対に負けられない。チームJAPANが目指すもの

フランス・リヨンで開催されるクープ・デュ・モンド2017本選まで残すところ2週間を切り、チームJAPANの練習も最終段階に入ってきました。
今回山本とともに世界に挑むのは、シュゼット・ホールディングスの駒居崇宏シェフ、そして森永商事の植﨑義明シェフ。2人とも国内外の大会で上位の成績を収めるトップレベルのパティシエです。

企業の垣根を越え、日本代表となった3人のシェフは全員が40歳以上。 洋菓子コンテストは20代〜30代の比較的若手の職人が出場する傾向があるなか、今回のチームJAPANの強みは「豊富な経験」です。
大会本番、10時間にもわたって繰り広げられる競技は体力勝負。「最後は自分との戦い」と山本は言います。若い職人に比べると体力面で不利な部分もありますが、3人の“手”に宿る長年の積み重ねによってしか得られない技術を武器に、自らの限界に挑戦すること。
その先にチームJAPANが目指すものがあるのです。

普段は東京、兵庫、滋賀とそれぞれの場所で準備を進めながら、秋頃からは週に一度、中間地点である滋賀県・近江八幡に集まって本番さながら10時間の通し練習を重ねてきました。
練習中、3人の表情は真剣そのもの。一瞬も気を抜けないという緊張感のなか、それぞれがアメやチョコレート、氷の作品に向き合います。
山本の氷彫刻も回を重ねるごとに完成度を増しています。

練習にはチームJAPAN団長の寺井則彦シェフをはじめ、クープ・デュ・モンドの出場経験を持つ松島義典シェフ、世界大会出場経験を持つクラブハリエのシェフたちも足を運び、「より良いもの」を目指して様々な意見が交わされました。
練習の準備や後片付けをサポートする若い職人たちも、一切の妥協を許さない3人の姿に大きな刺激を受けていました。
目指すのは「チームJAPANの世界一」ただ一つ。
この挑戦には、たくさんの人々の思いが込められています。

山本の挑戦はクラブハリエの挑戦でもあります。常に上を目指し、新たな可能性を切り拓いてゆく姿勢は、挑戦し続ける大切さを社員に教えてくれています。
1月はじめ、山本にサプライズで企画した壮行会を開きました。全国のスタッフを含め、この日この場に駆けつけられなかった社員の声を含めたビデオメッセージや寄せ書きをした国旗などを贈りました。
最後に山本は、皆の前で2度目の世界一に挑む理由をこう語りました。
「一度しかない人生。毎日ただ生きているだけじゃなくて、全員が何か“これをやった”という証を残してほしい。自分の姿を見てそう思ってもらえたら」。
本番はもう目の前です。
Episode.07 パティシエの“夢の舞台”。クープ・デュ・モンド フランス本選

「ジャポン」
表彰式で「日本」の国名が呼ばれたのは、準優勝でした。
首にかけられたメダルの色はシルバー。
その瞬間、選手たちの顔色が少し曇ったようでした。山本の目には堪えきれない涙が。
「世界一」だけを目指してきてチームJAPANにとって、そして、持てる全てを出し切った選手たちにとって、瞬時には受け入れがたい結果でした。

1位フランス
2位日本
3位スイス
しかし、その結果は22カ国(各大陸予選を含めると参加国は計50カ国)中2位という、素晴らしいものであることに違いはありません。世界のトップパティシエをしのぎ、日本の洋菓子レベルの高さが再び認められた瞬間でもありました。

2017年1月22日。
フランス・リヨンの現時時刻で午前6時、世界最高峰の洋菓子コンクール「クープ・デュ・モンド・ドゥ・ラ・パティスリー」の10時間にわたる長い闘いがスタートしました。
この大会は、世界中から約19万人が来場する欧州最大規模の外食産業見本市「SIRHA(シラ)」内で開催される注目イベントの一つで、2年に1度の開催で今年15回目。
歴史と伝統ある洋菓子職人にとってまさに“夢の舞台”です。今年は22カ国が出場し、各国の予選を勝ち抜いた代表選手が“世界一のパティシエ”の座を目指し腕を競います。

2日間で11カ国ずつ競技が行われ、チームJAPANは初日、最大の強豪・開催国フランスらと共に競技をスタートしました。
山本が担当する氷彫刻は競技の序盤。縦1m、横50cm、厚さ25cmの氷2ブロックを、チェーンソーやノコギリ、ノミを使って削り、表現したい形をつくり出します。

みるみる溶けていく氷を扱うのは、まさに時間との勝負。張り詰めた空気のなか、一心不乱に氷に向かう山本の姿がありました。
日本では秋から冬にかけて、時には氷点下近くまで気温の下がる屋外で氷彫刻の特訓を積んできた山本。実は渡仏直前の練習中、誤ってドリルで左手を突いてしまい、何針も縫う怪我を負っていました。痛みをこらえての本番。会場の気温の高さは予想以上のもので、氷の温度と会場の気温差が大きく、氷塊に大きなヒビが入るというアクシデントにも見舞われました。
しかし、見事完成させた「ウッドベースを弾くカエル」。カエルとウッドベースのパーツを最後に合体させるという繊細な技を駆使し、日本チームのテーマ「JAZZ FROG(カエルのジャズ)」を表現した作品は、大きな注目を集めました。


山本は氷彫刻とアントルメグラッセ(アイスケーキ)を担当。
アメ細工・アントルメショコラ(チョコレートケーキ)担当の駒居崇宏シェフ、チョコレート細工・アシエットデセール(皿盛りのデザート)担当の植﨑義明シェフも渾身の力を込め、それぞれの作品をつくり上げてゆきます。

味覚を競うケーキやデザートは、その場で切り分けられ、審査員が食べて判断をします。見た目・味・テーマ性・オリジナリティなど、厳密な審査が終始続きます。
審査員は、選手を率いてきた各国の団長らが務め、チームJAPAN団長の寺井則彦シェフも、3人をサポートしながら審査を全うされました。

観客席では、チームJAPAN応援団の声が大きく響いていました。各国の応援の中でもひときわ元気に、そして強い思いで選手へエールを送ります。
選手が所属する3社の応援団に加え、チームJAPANを支援してくださるスポンサーの方々、そして将来パティシエを目指す辻調グループフランス校とスーパースイーツ製菓専門学校の学生さんも一緒に。
手作りの応援歌で「植﨑!駒居!山本!」と呼び掛けました。
この懸命な様子は他国の応援団の共感を呼び、いつの間にか一緒になって会場を盛り上げていました。

競技終了。
チームJAPANはすばらしい作品を完成させました。
細部まで作り込まれたチョコレートのピエス、アメのピエス、そしてチョコレート彫刻。3人のシェフの手で表現されたカエルたちはまるで生きている様で、今にもジャズが聴こえてきそうなほど。
見る者に大きな感動を与え、日本の洋菓子技術のレベルの高さを世界に示した瞬間でした。
作品を前に、選手たちは「やりきった」という晴れ晴れとした表情。その姿を見て、応援団も大きな喜びに包まれました。

2日目、残りの11カ国の競技が終了し、表彰式が行われました。チームJAPANの結果は22カ国中2位、準優勝でした。
山本を含め、チームが目指してきたものは「優勝」。それしかなかったため、悔しさももちろんあります。 しかし、それ以上に大切なことを、3人のシェフは伝えてくれました。
「クープ・デュ・モンド・ドゥ・ラ・パティスリー」は、洋菓子という一つの道を極めた者しか立てない特別な場所です。 「最後は自分との闘い」と山本は言いました。
常に自分の限界に挑戦し続けることの意味を、山本は、精一杯競技する姿で示していました。
世界に挑み続けるクラブハリエのトップシェフたちの力強い姿勢は、若い職人たちにも受け継がれています。